ずっと『人生の夏休み』が欲しいと思っていた。恐らく二十代の終わりごろには、年単位で休むことができたらなぁと思い始めていた記憶だ。ずっと前から願っていた時間は、四十歳を目前に退職することによって得られたのだが、もはや余力は残っていなかった。スマホに例えて言うなら、やっとの思いで手にしたそのバッテリーの残量がわずか5%だったというような状況だ。その残量は毎日充電しているにも関わらず、せいぜい20%が良いところだった。
自分の顔に違和感を持ったのは、あるとき外出先で撮ってもらった自分の写真を見たときのことだった。これまでのように笑顔を作ったはずなのに、まるで生気が感じられないのだ。白くてツヤのない奇妙な肌質をしていることに加えて、目には光も力もない。経験上「こういう顔をして写っている」という脳内のイメージとその被写体には、想定以上の乖離があった。一朝一夕では回復できないほど疲れ果てていることは間違いない。その体感は、写真撮影の数秒間すらも覆うことができずに実体化しているのである。そういえば、真夏の炎天下における外出にも関わらず、日焼け止めクリームを塗ることすらすっかり忘れてしまっていることが度々あった。
それでも必要に迫られて外出した際には「やっと家から出てきたのだから」と、何年も前から気になっていた近所のカフェが夏限定でやっているかき氷をついに食べたりした。それはとても素敵なかき氷で、本当に美味しかった。行ってみたかった中華料理店のランチも、同様に美味しかった。ところが、、、どうにもお腹が苦しい。常に内臓が疲れているような、胃腸の稼働が鈍いような感じで、平日の昼間という夢のような時間に相応する喜びに浸り切ることができない。それは、「折角だから」「楽しまないと」「こんな時間は今しかない」等という、まるで広告のキャッチコピーのような自らの声に誘引されて、殆ど空腹を感じていないにも関わらず、欲をかいてしまった結果だった。これらの宣伝文句が頭の中に流れてくると、弱っているからだの声はかき消されてしまう。よく考えると、これは自分で自分をまくしたててプレッシャーを掛けている行為にほかならないのだが、それが自ら仕掛けたまやかしであることに気が付いたのは、もっとずっと後になってからのことである。
そんな訳で、家では横になって気の向くままYouTubeを見たり、動画配信サービスのサブスクを利用し始めて一日中アニメを見て過ごしたりした。疲れた大人の夏休みは、疲れた週末の延長のようなものだ。夏休みらしい人生の夏休みの思い出は、これに尽きるかもしれない。けれど懐かしい作品も、これまで見たことのなかった作品も、流行りの新作も、本当に楽しむことができた。あまり知らなかった声優さんのことが少し分かるようになったり、原作を読んだ作品は、アニメとの違いやそれぞれの良さを感じるようにもなった。
一方で「何もかもを見直したい」という、突き動かされるような退職の目的ももちろん忘れてはいない。その取っ掛かりが、『冠婚葬祭用のパールのネックレス』だった。「一生ものとして、ちゃんとしたものが一つ欲しい」と、そう遠くない昔に真珠専門店で買い求めたものなのだが、心の隅に違和感がある。確かに生涯使えるものではあるけれど、使用頻度は決して高くない。数回使用したところ、どうも自分には少し粒が大き過ぎたような気がする。何だか、あまりにも不相応に高価なものを購入してしまったと感じ始めていた。私はこのパールのネックレスを通して、深く自問自答することになる。
その粒の大きさは、確か8.5~9.0mmだった。何故そのネックレスを選んだのか。年齢を重ねても物足りなさを感じないサイズで(事前にインターネットで調べた情報から、一般的に年齢を重ねると比較的大きめの粒が馴染んでくるという点を参考にした)、ある程度きちんとした品質のものを持っていたいと考えたからだ。冠婚葬祭の場においては、きちんとしていたいという考えもあったが、それは「恥ずかしい思いをしたくない」という感覚に近かったような気もする。それがいつの間にか、自分が創り出した幻想に対して見栄を張る結果となってしまった。大事なのはそこじゃないってことなんて、分かっていたはずなのに。何よりも「足るを知る」から程遠い自分が、とても恥ずかしい。
そもそもTPOを踏まえて自分に似合っていれば良いのだ。今からちょうど15年前にパーソナルカラー診断をしていただいた、パーソナルカラースタイリスト・矢吹朋子さんのご著書『美人だけが知っている似合う服の原則』を改めて開いてみると、『サマーの人は小粒のピンクパールで可憐な雰囲気に』とあった。あぁ、何ということだ…大きめのパールを選んでしまっている。分かっているつもりだったのに、それでも間違ってしまう自分の情けなさよ。やはり、このままにはしておけない。自分にとってちょうど良い大きさで、顔映りが良いものを改めて選び直そう。
決心がついた私は、重い足を引きずって再びその真珠専門店を訪れた。再訪に至る経緯を正直にお話しし、買い取りしていただくことができないか相談してみると、当然購入時の全額ではないものの返品させていただけることになった。そして店内を見て回ると、一つのパールのネックレスが目に留まった。ほんの僅かにピンク色をしていて、粒の大きさは7.5-8.0mmだ。価格も自分にはこれくらいで十分だなと感じるものだ。このほかに店員さんに勧められた二つを含め、合計三つの中から検討することにしたのだが、身につけた状態で鏡を見たり、店員さんの説明を聞いたりしているうちに、思考がどんどんこんがらがって、どれが良いのか分からなくなってしまった。普段は用事がなければ乗ることのない路線、どこか雑然とした街の雰囲気、来る途中で目にした車通りや頭上にあった大きな首都高速道路の喧騒、何とか本日中に決着をつけたいという思い、店員さんの説明内容、ありとあらゆる情報が疲労した頭の中に累積していく。私は結論を一旦保留にして、お店を出ることにした。
少し歩いたところにあったカフェに入り、一息つきながら撮ってもらった写真を見て懸命に考え始めた。店員さんが言うように、実物を並べて比較すると確かに『照り』といわれる輝きに差はある。初めに目に留まったものは(照りの観点では)「ぼやけている」とも言っていた。けれど、実際に身に着けた写真からは特に「照りが劣る」とは感じられない。一つの観点から相対的に見て初めて認識できるレベルである。そもそもパールのアクセサリーを身につけた方を見たときに「素敵だな」とか「お似合いだな」と感じることはあっても、照りが気になったことは一度もない。そもそも、より上質なものを手にしたいというよりも、ある程度の品質で自分に似合ったものが欲しいというのが本来の目的だ。ネックレスが単体で歩くわけではないので、それ自体の評価というよりも、身につけたときに顔映り(自分の肌質との相性)が良く、全体の雰囲気が合っていることが大事な気がしてきた。しっかりとした輝きが感じられるパールはハッキリと見えて美しいが、多少照りが控えめなパールもパウダリーで優しい感じがする。むしろ後者の方が私の肌質には合っているのではないか。やはり初めに目に留まったものだったのだ。ようやく、こうして答えを出した。
これまでも買い物は難しいと薄々感じてはいた。しかしここまで考え抜いたことはなく、かなりのエネルギーを消耗したのだが、この一件で分かったこともある。それは、心のどこかで「失敗しなくない」と思っていたことだ。これまでもあらゆる場面でたくさん失敗してきた至らない私が今さらなお失敗したくないなんて、ギャグ漫画のようで笑えてしまうが、失敗をなかったことにしたいとすら思っていたような気がする。けれど、それは違う。自分に合うものを見つけていくには、どうやら都度客観的に分析していくしかない。それには重ねた失敗も含めて、自分なりに深く考える必要がある。その過程でようやく何かが見えてきたり、分かってくることがあるからだ。大なり小なり、お金・時間・労力が掛かるが、自分なりに向き合っているのなら、それらは決して「代償」ではなく「経験」と言えるのではないだろうか。値段に関わらず、また固定観念や他者がどう思うかなどの思考の罠に惑わされず、自分にとって本当に合うものや価値あるものが何なのか、見極めることのできる感覚を培っていきたい。
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