実家の大片付け・大掃除(11)

実家関連

春になってようやく雪が殆ど溶けた頃、再び9日間帰省した。大片付けは山を越したとはいえ、まだまだやることが残っている。私自身のモノは、無印良品の『ポリプロピレン頑丈収納ボックス(大/50L)』一つに収めた一方で、弟のモノが入った数々の段ボールは、大学卒業後にとりあえず実家(当時は別の場所だった)に送ったのであろう状態のまま、雑然と積み上げられている。その中身は、当時の衣類(大量)、バッグ、教科書、書籍、タッパ、それにノートパソコンまであった。もう着ない服はそこで処分すればいいのに、何故わざわざ実家に送るのか、私には意味が分からない。他人のモノに手を出すべきではないことは承知しているが、当の本人は殆ど実家に帰らないし、帰っても一瞬だ。今着手しなければ、いざという時、多大な労力を掛けざるを得なくなってしまう。時間がない。

弟には連絡した上で、残しておくものを写真で確認し、不要なものは処分していく。古いノートパソコンには「PCリサイクルマーク」がなかった。当該マークのないパソコンは、メーカーに回収の申し込みをして、料金の支払用紙が郵送で届いたら料金を支払う必要がある。その後、輸送用の伝票が送られてきたら、梱包して日本郵便で発送する流れになっている。処分したいからと言ってすぐに処分できる訳ではなく、一連の手続きと対応が完了するまでに一週間~十日ほど要する。私が滞在している間に完結できないことは、後続の対応を両親に説明して託した。片付けの過程で、探していたらしい学生時代の留学時の写真が出てきたので別にしておくと、その後帰省した際に引き取っていったらしい。そして弟の箪笥の上には、いつのものだか分からないコンタクトレンズの洗浄液や、コンタクトレンズケースや、目薬や、整髪剤や、制汗スプレー等が埃を被ったまま置かれている。帰省した時に処分すればいいものを、何故使わないものをいつまでもそのままにしておくのだろう。この箪笥周りを片付けると、弟が取っておくモノも最終的には『ポリプロピレン頑丈収納ボックス(大/50L)』一つに収めることができた。これらの片付けを終えると、言うべきことを言わずにはいられない。

『実家を物置にするな~っ!!!』

ここまで終えると、私にも少しゆとりが出てきた。大きな変化を感じたのは、実家にいる猫のペースに合わせることができるようになったことだ。これまではあまりにもやることが多く、一日中動き回っていて猫を構う余裕などなかった。しかし、それがどこであろうと、足元でごろんと寝ころんだら、たくさん撫でてあげることができるようになったのだ。自分以外の、それも動物のペースに合わせることができるようになったということは、とても感慨深いことだった。

その後は、自分や家族の写真を整理した。延期して開催された東京オリンピックには目をくれる間もなく、室温30度の中、居間の大きな座卓にアルバムを並べた。家族写真を収めた大きなアルバムは重たいだけでなく、経年劣化により台紙が変色しているため、そこから剥がして大きめの封筒にざっくりと仕分ける作業を行ったのだ。母も、その方が写真を一枚一枚手に取れるので、逆に見やすいと言う。この夏の帰省は、8日間だった。

実家の大片付け・大掃除は、ここで一段落ついたことになる。2019年8月から2021年8月までの二年間で、合計6回、延べ59日間に渡る帰省だった。処分したモノは、軽トラック10台分以上だ。

これまでに記述しなかったことでも、記憶に残ることは多い。祖父母の時代から使われている、埃まみれで古いにおいが染みついたような木製の引き出しを、一段ずつ外して浴室で洗ったこともその一つだ。生涯使い切ることができないような量のご祝儀袋や香典袋、ありとあらゆるところから次から次へと出てくる乾電池にSDカード(一つ一つ中身を確認しては、実家のノートパソコンにデータを移した)は、片付けられない父を表すほんの一部である。過去には、法事のために座布団カバーを買う必要があったにも関わらず、大片付けの過程で真新しいものが十枚も出てきた。モノの存在を把握していないことにより、不要な出費が生じる一例だ。

元々、この家は決して経済的に困窮していた訳ではないらしいのだが、母から聞く話はまるで昭和の初期を思わせるような生活で、その一端は今でも父に見ることができる。その昔は、真冬でも石油がもったいないと言って部屋を十分に暖めることをしなかったため、結婚後の母はしょっちゅう風邪を引いて具合を悪くしていたらしい。幼い私の手にできた「しもやけ」が破れて病院に連れて行ったこともあったそうだ(手に包帯を巻いている二歳ごろの写真が残っている)。母が話す「昔話」の本質を本当の意味で理解し始めたのは、退職してこの家の大片付けに取り組んでからのことである。長期間滞在し意識を向けることで、初めて見えてくるものがあることに加え、私が四十歳という年齢に達したことにより、徐々にではあるが、ようやく解ることもあった。それをどう定義すればいいのか長い間分からなかったが、現代の言葉で見つけることができた。母は、主には「姑によるモラルハラスメント」で苦しんでいたのだ。当時の家庭裁判所の判断により、私たちは祖父母と離れて暮らしていた背景がある。満身創痍の母と母方の祖父母によって、私も弟も守られた。弱い立場であった人間に圧力をかけて我慢を強いた者、長い物に巻かれた者、我関せずの者。すべて私の肉親だ。心の貧しさは、単純に「ケチ」や「古臭い」といった言葉だけで言い表すことはできない。それらの不完全さや弱さは、私の中にも確実に存在する。私は、相反する色々なものからできている。その事実を認め、子供のころから感じていた「この家の気疎さ」に決着を付けたい。

母の嫁入り道具の一つに、厚みのある座布団が数枚ある。小学校の担任の先生が家庭訪問に来たときに一、二度見かけた以外は、長年使われずに仕舞われていた。新しいまま経年により擦り切れてしまっており、母にとっては非常に残念さを感じるモノの一つだったが、大片付けを経て、座布団カバーに入れて居間で使うことになった。二十代で結婚した母も、今は六十代。当時、祝言の席で(母方の)祖母が感じたらしい「大きくて立派な家の割に、座布団が薄くて粗末だった」という違和感は的中し、その後の母からは一切の余裕が奪われてしまった。生涯、母を案じていたであろう(母方の)祖父母も伯父も、既に亡くなっている。大片付けの最中、「私が今までのようにはさせない。必ずやり抜くから安心していてください」と、空の上で休む祖父母や伯父に約束したのだ。母の嫁入りからおよそ四十年。(母方の)祖父母が母のために揃えた座布団が、今ようやく普段使いされている。時間は掛かってしまったが、それでも「最終的には、使った」という事実が、母の心残りを上書きしていくと信じたい。大片付けを通して、私は実家の歴史と新たな現状に向き合ってきたように思う。

離れた実家の大片付けは、とても仕事の片手間にできることではない。それは、終始つくづく感じたことだ。その程度によるだろうが、私の場合はそうだった。自分の生家でありながら殆ど暮らしたことがなく、家の構造や間取りさえもよく分からなかった。祖父母が暮らした部屋は、およそ五十年から七十年間そのままで、時代錯誤の空間だった。退職を機にこれらすべてにメスを入れることになったが、それと同時に両親の老いを感じた。モノは極力置かず、足元を広くして動線を簡素化しないと、古家においては掃除が大変なだけでなく、危ない。それぞれ忙しい日々を送っている間に時間は経過し、各人の人生ステージも家族構成もすっかり変わってしまっている。その変化に見合った状態に整えておきたい。

これ以降、私が実家において対応したことは、明らかに質が変わった。ひたすら物理的に片付けて大掃除するのではなく、現在の生活をより良く送るための対応に移行したのである。この辺りのことについては、またいつか別の記事に書きたいと思う。

会社員生活17年に渡るインターバル走の末、疲れ果てて「何もかも整えたい」と2019年に退職。現在は、専業主婦の傍ら新しい働き方を模索しつつ、退職後に向き合ったことや日々感じたことなどをエッセイにして発信している。趣味は、日向ぼっことクーピー画。

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