連日大片付けを進めていたある金曜日の午後、町内のとある人が玄関先にやってきた。母が対応したのだが、その人が帰った後で、「子供の連絡先を記入してくださいと言われたんだけど…」と、困惑した様子だ。話を聞くと、今年母が「65歳になっちゃった」ことで、「この家は高齢者のみの世帯となった」ので、「この用紙に子の連絡先を記入してください」と言われたらしい。何もかもがあまりに唐突で話が良く分からず、母がそれとなく尋ねると、その人は”民生委員”をしているということと、その用紙は市役所から来たものであることが分かったらしい。二日後の日曜日に、記入後の用紙を取りに来ると言う。
訳が分からない事態に、パソコンを開いた。そもそも”民生委員”とは何か?何の権限でこんなことをしているのだろう?調べてみると、民生委員は、民生委員法に基づき厚生労働大臣から委嘱された非常勤の地方公務員で(無報酬のボランティア)、日本の市町村に配置されているらしい。高齢者・障害者・児童・母子世帯など要援護者の調査・実態把握、相談支援等を行っているとある。今回、実家に民生委員がやって来たのは、高齢者世帯の実態把握のため、と思われた。「民生委員」という存在を私は初めて知ったのだった。
次に、渡された用紙である。『高齢者のみの世帯台帳』とあり、両親の氏名と生年月日はすでに鉛筆書きで記入されている。(後に確認したのだが、市役所から提供された情報を基に、この民生委員が書いたものとのことだった)その下には、『緊急時の連絡先(血縁者)』と『子供の情報』の欄があり、それぞれ氏名・続柄・住所・電話番号を記入する形になっている。その続きには、避難支援制度の登録有無や、避難所までの移動方法、現在の健康状況(治療中の病気の有無、かかりつけ医療機関等)、介護認定および障害者手帳の有無、社会参加状況(デイホーム等のチェックボックス)、月1回以上の交流状況の有無(子供・親戚・近所・友人)を記入する項目がある。それらを鉛筆書きで記入するようにとのことらしい。かなりの個人情報である。この用紙の趣旨については、市のホームページに掲載がなく詳細が掴めなかったため、問い合わせ窓口を調べて直接聞いてみることにした。金曜日の17時になるところで、役所関係への電話は急を要した。
そこは区域担当民生委員の問い合わせ先で、県庁の地域福祉班だった。事情を説明すると、折り返しの電話を待つことになった。その電話は間もなくあったのだが、市役所の危機管理課の担当者に話を通したので、そこに電話してくださいと伝えられた。早速、市役所のその担当者あてに改めて電話をし、今回の経緯を説明した上で、渡された用紙の趣旨を尋ねた。結果は、こうだった。『高齢者のみの世帯台帳』は、市の避難支援制度に基づくもので、高齢者(65歳以上)のみの世帯であり「避難にあたり支援を要する人」、つまり災害発生時に自力で逃げることができない人を対象としたものとのことだった。この用紙は、民生委員を通して市役所の危機管理課に提出されることにより、市役所が自主防災会、町内会、民生委員、警察署、消防本部に対して名簿を提供するらしい。もちろん義務ではないし、希望者に向けたものである。そしてその担当者も言う通り、自力で逃げることのできる私の両親には、そもそも該当しないものだったのだ。
最も納得がいかなかったのは、事前にするべき一切の説明を行わずに、個人情報を得ようとしたことである。その人は自分が民生委員であることすら、母が尋ねるまで言わなかった。当該支援制度に該当する・しないの確認はおろか、記入用紙である『高齢者のみの世帯台帳』の趣旨や、それが希望性であることも、希望した場合における個人情報の管理と提供先に関しても、何も説明がない。そんな民生委員の手に個人情報を預けることの気持ち悪さと言ったらない。市役所からそのような民生委員に対し、両親の氏名と生年月日が提供されていることにすら、不快感を覚えた。本来、知る必要のない個人情報を搾取しようとしたと考えることもできてしまう。
市役所(危機管理課)の担当者に民生委員の教育はどうなっているのか聞いてみたところ、この年(2020年)は新型コロナの影響もあり、民生委員の会議ができなかったとのことだった。きちんと教育して欲しいとは伝えたが、そもそもの人選が謎である。田舎という地域性や民生委員を務める個人の性質は大いにあるだろうが、少なくともこの小さな村において、このようなやり方がまかり通っている現状に驚愕してしまった。
二日後の午前中、その民生委員が用紙を取りにやって来た。術後の母に余計な負担を掛けたくないので、今度は私が一人で対応した。市役所(危機管理課)の担当者に助言された通り、『うちは該当しないので、提出しない』旨を伝えたところ、「娘さんが一緒に住んでいないのであれば、この世帯の対象になる」と言われてしまった。「避難支援制度に基づくものですよね?」と確認したところ、「それだけではない」とのこと。「では、それが何か説明してもらえますか」というと、「市役所から説明書をもらっているが、そのすべてが頭の中に入っているわけではないので、今すぐには説明できない」と言う。趣旨を理解しないまま、最も厳重に管理されるべき個人情報を「書いて提出しろ」の一辺倒で収集している民生委員が現実にいる。この人に何か言っても駄目だと悟り、「私たちは個人情報の提供に同意しません。市役所にもそう伝えていただければ結構です」と言って帰した。台帳用紙は返却してほしいとのことだったので、当該民生委員にそのまま返却した。
釈然としない感じが残りつつも、不必要な個人情報の提出を避けることができた点には、母も安堵していた。こんなとき、父はいつもいなくて頼りにならないと言うが、幸か不幸か、父だったら何も考えずに言われるがまま提出していただろう。たまたま私が帰省している間に直面した一件だったが、それは高齢になった両親の元に一定期間滞在したことで初めて知る、地域社会の仕組みと現状の一つだった。必ずしもあるべき姿ばかりではない、現実における一種の”面倒くさい状況”に応じて対外的に対応を図ることもまた、高齢になった両親を支えるということなのかもしれない。
この三年後、後任の民生委員がやって来たと母から連絡があった。(民生委員の任期は三年らしい)「個人情報の提供に同意しないと聞いているのですが・・・」と言われたので、母が「そうです」と答えると、怪訝そうな顔をして帰っていったそうだ。残念ながら前任者と同様に、そもそもの趣旨を理解しておらず、両親は該当しないという認識がないらしいことは、書き残しておきたい。
さて、気を取り直して大片付けの続きに取り掛かる。四か所に点在する父の衣類の置き場が気になっていた。玄関前の通路の衣装ケースには、作業着の一部と靴下が入っており、一階四畳半の部屋にあるハンガーラックには普段着が掛かっている。二階居間にある箪笥には普段着や作業着があり、母の部屋にある箪笥には肌着や外出着がしまわれている。これを少しでも集約できないものかと考えた。元々父は、片付けることをしないし(靴は脱いだら脱ぎっぱなし、使ったモノは使いっぱなし)、身なりにもかなり無頓着である。そんな父にとって、この衣類の取り出しに関わる手順はあまりにも複雑で難しいのではないかと思った。母に言うと、「そんな、馬鹿な」と言って信じられない様子だったが、一階と二階に点在するそれぞれの場所から必要な衣類を考えて取り出す、という明らかに煩雑な工程と動線は、父にとって極めて面倒なことに違いなかった。多少集約したところで、父の性分は変わらないことは重々分かっているが、当然の如くできるはずと思っている母にも驚いてしまった。人は皆、物凄い思い込みの中で生きていて、そこから生じる現実との誤差とそれに伴う感情に疲弊するのかもしれない。
母の部屋にある箪笥には普段父が着ないものだけを残し、その他は二階居間にある箪笥に集約した上で、それをハンガーラックのある一階四畳半の部屋に移すことにした。当然それを行うためには、内容物の取捨選択と整理が必要だ。最もかさばる衣類は作業着だった。すべて出してみると、厚手の長袖とズボンのほか、薄手の長袖とズボンがいくつもある。長年使用してかなり汚れているものもあれば、殆ど使っていないと思われるものもあった。綺麗なのを着ればいいのにと思うが、見てくれはどうであれ原型を留めている内はそれを使うという感覚であろう父が、審美性の観点から自ら進んで処分することはまず無い。とにもかくにも、まずは「案」として、残すものと処分するものを仕分けた上で、父に確認する。中には、〇〇の仕事に行くときの指定の作業着で捨てられないというものもあったが、その他のものも、予想通り処分することに否定的だった。それでも今後のために、引き下がるつもりは毛頭ない。何十年と使った作業着の他に、厚手のものも薄手のものも在庫があって、これだけあれば、この先二十年くらいは十分足りることを説明した。何としてでも、この箪笥に入るだけの量にする必要がある。最終的に、全部とはいかなかったが、最低限の処分の了解を得ることはできた。肌着も結構古びている感じがしたが、あまり一気に処分すると発狂するという母の助言から(新しいものを買ってきても怒るらしい)そのまま残して収納した。父には、整理を終えた箪笥の引き出しの中を一段ずつ説明した後に、この箪笥を一階四畳半の部屋にあるハンガーラックの隣に移動した。
これで四か所に点在していた父の衣類の置き場は、三か所に集約することができた。二階の母の部屋にある箪笥には普段着ないものだけになったので、父はわざわざ二階に行かなくても、一階のみで衣類の完結ができるようになった。同様に母が洗濯物をしまうときも、随分楽になったと後日聞いた。二階の居間は、箪笥がなくなったことでスペースが広がった。母はもちろん、頑丈な父でさえも、階段を上り下りする様子に年齢が感じられるようになっている。モノの取捨選択は伴うが、動線を広くすることや簡素にしていくことは必須である。
こうして『実家の大片付け・大掃除(3)』から続いたこの度の帰省が終わった。術後の母の家事をサポートするという当初の主目的は、結果として母屋におけるほぼ全箇所の大片付け・大掃除に変わり、22日間に渡る長期の帰省となった。本当に一つひとつがひたすら力業の大改革で、とても勤務しながら出来るようなことではなかった。まだやることは多く残っているが、大片付け・大掃除の山は、間違いなく越えたことを感じた。
ところで『実家の大片付け・大掃除(5)』に記述した、あの古い掛け軸。すべて処分してしばらく経った後、一枚ずつ撮影していた写真を見ていると、ふとその内の一本に何やら署名と落款印が入っているのが目に留まった。それは高砂が描かれた掛け軸で、『狩野 元信』という署名とともに林檎のような形をした赤い落款印が押されていた。調べてみると、狩野 元信(かのう もとのぶ)は、室町時代の絵師らしい。どれ位、価値のあったものなのかは分からないし、贋作かもしれない。二代目のご先祖様が手に入れて、あの木箱に入れて保管していたのだろう。ご先祖様へ。大切にしていたと思われる、あの掛け軸を処分してしまったこと。確認する余力も、引継ぎもなかったもので、ごめんなさい。どうか悪しからず。
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