退職後の日常は、夜のはじまりだった。それは朝が来たら忘れてしまう夢の中の出来事のように、現実感がない現実のようなもので、常に頭の中がぼうっとしている。17年余りの勤務は、大変なことの連続ではあったけれど、今では満足している。特にたくさんの方と出会い、一緒に仕事をさせていただく機会をいただいたことには、心から感謝している。10回もの送別会を行っていただいた私は、本当に幸せだったと思う。最後は体力ぎりぎりで、最終出社日を終えた翌日からは高熱を出して寝込んでしまっていた。『生活のペースが変わると、体調を崩しやすいから気を付けてね』という恩師からのメッセージ通り、その後も微熱はかなり長く続き、退職から二週間後には母が病食を送ってきたのだった。
そんなあるとき、住んでいるマンションで朝から断水が行われる日があり、外出を余儀なくされた。平日の断水など、在職中は気に留めることもなく、それまで行われていたかどうかすら記憶になかったのだが(そういえば、たまにやっていたことを思い出した)、どうやら給水設備のメンテナンスを年次で行っているらしい。大切なメンテナンスである一方で、例えば介護をしているお宅や、小さなお子さん或いはたまたま体調不良のお子さんがいるお宅があったとしたら、こんな日はとても大変なのではないかと思った。
体力の限界を迎えた私は、体調不良がデフォルトである。ところが、退職からおよそ一年の間は(年次の断水の日や、実家の大片付け・大掃除のほかにも)何かと必要な手続きがあり、コンスタントに外出せざるを得ないのだった。例えば、失業保険の受給のためにハローワーク(公共職業安定所)へ行ったり、社会保険(国民健康保険・国民年金)の加入・変更手続きのために区役所へ行ったり、国民健康保険料・国民年金保険料・住民税(市民税・県民税)納付のために郵便局へ行ったり(税金の納付書は、漏れも容赦もなく、自宅に届く)、確定申告(所得の申告)のために税務署へ行ったりである。やったことのないことをしているという新鮮な感覚だけを頼りに、都度、何とか赴いた。
夫の扶養に入ることにより社会保険も変わる。国民年金は、会社員は『第2号被保険者』だが、専業主婦は『第3号被保険者』だ。但し、失業保険の受給期間中は『第1号被保険者』になることが手続きの過程で分かった。(※後に調べたところ失業保険の基本日額によるらしい)つまり退職後の約4か月間は「第3号被保険者」、その後、失業保険を受給する約4か月間は「第1号被保険者」、以降は再び「第3号被保険者」という形になるということだ。このため9か月の間に、三度も変更手続きを行う必要があった。健康保険についても、都度それまでの『健康保険の資格喪失証明書』等の必要書類を添えて、夫が勤める会社を含め変更手続きを行った。
この他にも、それまで加入していた企業型の確定搬出年金について、資格喪失 ・変更手続きを経て、個人型の確定搬出年金(iDeCo)へ切り替えたりもした。
ハローワークは、2019年秋から2020年春までの七か月間に合計11回行ったのだが、流れ作業のように一斉に初回の説明が行われる様子や、専用のパソコンで求人情報を閲覧できることも、灰色掛かったその雰囲気も、想像と大きな相違はなかったものの初めて目にすることができた社会の景色だ。そもそも求人と雇用を仲介するサービスとしては、民間運営のものと公的なものがあり、前者は例として転職サイト等を運営する会社によるもの、後者は厚生労働省が運営するハローワークであることにも、改めて納得した。ハローワークでは、各種セミナー・ミニ面接会・職業訓練等、様々な就職支援を行っている。これらは健康であれば、前向きに活用できそうだ。私が「求職活動」として求人情報を閲覧していた中で、とある神社の筆耕の仕事に興味を持ったのだが、自宅の最寄り駅からはかなり遠く、残念ながらとても通勤できる距離ではなかった。
そんなぼんやりとした日々の中、プラットフォームに向かう下りのエスカレーターに乗っていると、停車している電車(車両)が眼下に見えた。こんな角度からまじまじと電車を見ることはなかったので、不思議な感覚になる。結構砂ぼこりを被っていて、空調のファンが見えたりした。そんな何でもないような場面が「新しい情報」として脳に記録される。それまで寄り道する余裕もなかった私が、ふと百貨店の屋上に行ってみたこともまた、新しいことだった。何があるのか見てみたくなり、エスカレーターで最上階まで登ってみた。そして未知の場所に出てみると、そこは紛れもなく屋外だった。空があり、周辺の景色も見える。地面はコンクリートで、閉まっていたがガーデニング系のお店やちょっとした建物があったりするので、地上っぽい感じもする。フットサルコートや自動販売機もあった。「こんな風になっていたのか」と思っていると、今まで遠くから見ていた大きな立方体の百貨店の屋上看板が、なんとすぐ近くにある。そんな唐突な距離感と見え方もまた、脳に不思議な感覚をもたらした。面白かったのは、芝生の場所でスーツ姿の男性が一人、靴を脱いで仰向けになって寝ていたことである。平日の15時過ぎだったので、移動中の休憩だろうか。とても疲れているのであろうことに深く共感するとともに、思わず少し笑ってしまった。
そんな平日の日中は、週末の混雑とは別世界で、外出先はどこも静かである。家にいても、聞こえてくる外の音や空気感は週末とは明らかに違って、不思議な穏やかさがある。夜のまどろみの中で、これまでリンクすることのなかった時空間に立ち、そこから見える景色を望む。それから私は、ほとんど透明人間になったかのように、不思議な気持ちで世界を眺めることが多くなった。
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