実家の二階の角には、開かずの間がある。物置にしている古い小部屋だ。主に使用する二階の部屋から一段下がったところにあり、用事がないので開けることもない。あまりにも無縁な部屋の一つで、殆ど意識したこともなかった。この度、そこへ生まれて初めて足を踏み入れることとなった。
古びたガラスの引き戸を開けると、そこはどこもかしこも、本当に古い部屋だった。壁はベニヤ板で補強されているようだったし、点くのか点かないのか分からないような照明が取り付けられていて(確か点かなかった)、曾祖母のものらしい箪笥や、木製の大きな収納箱や、長細い木箱、長い机(裁縫台とのこと)、段ボール箱等が雑然と置かれている。箪笥の上にも紙箱類が積み重ねられている。
普段使用していない部屋なのだから、ここにあるモノは基本的に全て必要ないはずだ。大したモノは何もないことは分かっているが、一体何が入っているのだろうと、古い箪笥の引き出しを開けてみると、その殆どは引き出物でもらったタオルや手ぬぐいや風呂敷などだった。百箱まではなかったと思うが、数十箱が紙箱に入ったままの状態でしまわれている。箪笥の上の紙箱類も同様だった。とにかく一箱一箱、開けては中身を出す作業がひたすら続いた。紙箱は潰し、プラスチックのフィルムがついているものは剥がし、中身のタオル類はすべて雑巾用に仕分けた。紙箱だけでも山になり、タオル類は、サンタクロースが肩に掛けて持つような超特大サイズのビニール袋に一杯になるほどの量になった。
私は、昔からタオル等の古布が大好きだ。適当な大きさに切って、使い捨ての雑巾にできるからだ。すぐに使えるよう予め切っておく作業でさえも、億劫に感じたことはなく、むしろ微かにウキウキするほどである。昔読んだ新聞のコラムで古くなったタオルを雑巾に転用することを「昇格する」と言う人がいて、決して「降格」ではない点に大いに頷いたことがある。大量の雑巾を必要とする実家の大掃除において、まるで、これを使ってくださいと言わんばかりだとも感じたが、そんな訳で、雑巾だけは豊富にあった。そして、このことは私のやる気に火をつけた。
木製の大きな収納箱には、ギター等が入っていたが、そこには昭和45年(1970年)7月23日の地元紙が敷かれていた。50年前である。もっと驚いたのは、補強された壁のベニヤ板をめくると、その中には、『昭和十五年三月十六日』と『昭和十六年三月六日』の『東京日日新聞』が入っていたことだった。(東京日日新聞は、現在の毎日新聞らしい。)1940年~1941年ということは、2020年から遡ること80年前ということになる。更には、『スパイ飛行機だ』という活字とともに、”U.S. AIR FORCE”の戦闘機の大きなカラーの挿絵が二機、厚紙にセロテープで貼られていた。戦時中、祖父の兄弟姉妹の誰かが貼ったのだろうか。(実家の祖父は、シベリア抑留後に帰還した。)時代のギャップに言葉を失いながら、私は一体、何十年分の大片付けをしているのだろう、と思った。ベニヤ板の向こうからは、外の光が漏れている。外に通じる壁の隙間に、この家の寿命を感じざるを得ない。冬は寒い訳である。あまりに寒いので、冬は帰ってくるなと母は言うのだった。
二つあった長細い木箱の中には、全部で11本の大小さまざまな掛け軸が入っていた。一方のスライド式の木箱の蓋の裏には、『明治二十五年 當家(とうけ)二世』という墨字とともに、二代目のご先祖様の名前が書かれている。七福神や高砂や仏と鬼らしきものが描かれたものや、書の掛け軸もあったが、どれも古く埃っぽい。大片付けを完遂すべく、早く処分したいと思った。掛け軸は母に持ってもらって、一つひとつ写真に収めた。父には「写真に残したから処分しよう」と言ったが、すぐには処分しなかった(最終的に処分したのは、これから二年後のことである)。開かずの間は、ほぼ空にして、掃き掃除を行い終了とした。
開かずの間の次は、その前の通路だ。ここには幾つもの引き出しや、父が昔使っていたらしい勉強机が置かれており、その上には薬箱やら段ボールやら法事の引き出物が入っていた手提げバッグ等が置かれていた。父の衣類まである。引き出し類は、父の書類やモノが入っているようだったので、中身はそのままにし、二階の居間(前年の夏に片付けた部屋)に移動させた(中のモノは整理するよう父に言った)。ケースに入った大量のボタンも出てきた。父に聞くと、シャツのボタンが取れたときに使っているらしいが、仮にひと月に一つ使うと計算しても、到底、生涯使い切れる量ではない。サイズも量も必要分だけを残し、後は処分する方向で納得させた。一体いつ拭き掃除したのかわからない床に置かれたたくさんのモノをすべて撤去すると、薄暗かった空間は少し明るくなり、何よりも通路が広くなった。そして、窓や柱や床の掃除を行う。どこもかしこも、まるで拭き掃除に終わりがないような状態なので、たくさんの雑巾を入れた厚手のビニール袋に直接水をひたひたに入れ、ごみ袋、箒、ちりとりと一緒に持ち歩きながら作業をする。掃き掃除を終えた後、ビニール袋の中で水を絞って拭き掃除に使用した雑巾は、そのままごみ袋に入れていくのだ。水場が一階にしかなく、何をするにも動線が長いことに加え、大量の雑巾を必要とするこの家の大掃除においては、この方法が一番良いと直観した。
そしてこの通路には、一階の居間に通じる急勾配な小階段がある。雑巾がけをしていて分かったのだが、この階段の入り口の片側には柵も手すりも何もない。通路幅の約半分(およそ60cm)が突然小階段の穴になっているような形だ。万が一、後ろ向きに作業していてこれに気付かず後退した場合、足を踏み外して落下する危険性がある。
ふと、子どもの頃、この家の所々に子ども用の柵が取り付けられていたことを思い出した。よく思い出してみると、それは母の部屋の外から開かずの間に続く大きな段差の手前にも取り付けられていた。大きな段差だけでなく、その先にはまるで落とし穴のような階段もあるのだから、動き回る子どもには危険だったに違いないことは、今ならよく分かる。「昔、柵があったよね」と母に言うと、それを取り付けるのも大変だったらしいことが判った。設置するには家の柱に穴を開ける必要があり、家を傷つけられたくない祖父母は随分腹を立てたそうだからだ。
現在二階にある物干し竿がなかった当時、母が転落しないよう柱につかまりながら窓の外に洗濯物を干していた際も、「そんなに柱をつかんで、家が壊れてしまっては大変だ!」と祖母は言い放ったそうだから、この家のポリシーは「物理的な家が第一、人命はその次」という理論だったことになる。ここでの暮らしは、母にあまりに大きく深い傷を残した。でも、この大片付けを通し、嫌なことを思い出させたり連想させるモノを視界から全て消し去り、目の前の景色を刷新すれば、必ず何かが変わるはずだ。
さて、その小階段の正面上のスペースを見ると、何故か観音開きの家具が幅ぴったりに置かれている。扉を開けて中を見てみたが、案の定、大したモノは入っていない。何でこんな場所に置かれているんだと思いながら、即刻撤去すべく小階段の片脇から持ち上げようとするが、とても重たく簡単には持ち上げられなかった。こちら側には手すりがあるが、手すりといっても約50cmと信じられないほど低いので、その家具の重さに引っ張られないようにしながら、てこの原理を利用し手すりの上で回転させるようにして何とか撤去した。当然、その跡地には数十年分の砂埃や外れたベニヤ板が出てきたりするので、必然的に更なる掃除を要されるのだった。
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