お盆の大片付けの後、祖母はケアハウスに入所することが決まった。
そしてこの年の十月、母方の伯父が亡くなった。葬儀に参列するため7日間帰省し、この間に実家の大片付けの続きをすることにした。
祖母がケアハウスに入所したことにより、これまで誰も触ることが許されなかったかのような祖父母のモノを、私は黙々と片付け始めた。可能なものから処分するべく、分別を始めたのだ。台所の戸棚に長年置かれた置物、額縁に入れて三十年以上は飾られたままの航空写真等、その場所から一つひとつ取り外し、それぞれ解体した。
亡き祖父が寝室に使っていた一階の部屋においては、祖父のポータブルトイレや日用雑貨等、押し入れの中を含め物置状態になっていた。押し入れの戸を外すと、その戸の裏には大きな綿埃がべったりとついている。どこもかしこも掃除しなければならない。この部屋のモノをすべて外に出し、掃除することにした。四畳半という狭い一部屋だが、押し入れの戸、押し入れの中、窓、窓サッシ、四方の壁、ガラス障子、吊り下げ式の照明など、手を付ければきりがない状態だ。何十年ぶりの大掃除と思われた。雑巾がいくらあっても足りないほどだが、皮肉なことに、この家には古布が山ほどあり、使い捨てにする雑巾には困らない。畳も古いが、居場所としては使わない部屋なので、上敷きだけを替えることにした。父とホームセンターへ買いに行き、二人掛かりで端からしわを伸ばして敷き終えた。すると従来とは大違いの、整った状態の部屋になったのだ。押し入れには、祖父母が遺したアルバムや、すぐには処分できない保留のモノを置いた。父の衣類を掛けるための新しいハンガーラックもこの部屋に置いた。
同時進行で一階の居間(12畳)。ついにここにメスを入れる日がやって来た。ここは、昔から祖父母が日中過ごしていた場所だ。祖父母は、畳が焼けないよう、部屋に日光を入れることを嫌った。私が子どもの頃から来る度に目にしていたこの居間のモノは、そっくりそのまま何も変わらず静止している。衣類が掛けられるだけ掛かったぶらさがり棒は、小学生の頃にぶら下がったことがある。平成の初期頃買ったのだろうと思っていたが、両親が祝言を挙げたとき(昭和五十年代)の写真に既に写っていたので、驚いた。そのぶらさがり棒も、衣類とハンガーも、本棚も、背の低い木製の戸棚とその中のモノも、そこに乗せられた人形も、祖父の座椅子も、古い座布団類も、額縁に入れて飾られた数々のモノも、神棚で一緒くたになっている縁起物も、全て処分するべく解体した。額類の裏には、埃や蜘蛛の巣はもちろん、昆虫の死骸もあった。
居間の畳もかなり古い。腰が重い父に代わり、母が畳屋さんに電話した。ここまでやると、父も動かざるを得ない。見積もりに来た畳屋さんが畳を外すと、その下は板間になっていた。私にとって初めて見る光景だった。畳は裏の形状が古いもので、50年は替えていないだろうとのことだった。二日程後だったか、見積もりとともに提示された選択肢の中から畳を決めた。縁(へり)の色柄は、母が選んだ。(この過程で、一番高価な畳にしようとした父が謎である。根本的に寿命を迎えているこの家においては、替えるだけで十分綺麗になるし、12畳もあればその差は数万円に上るというのに。母と私が制した。)新しい畳は、私の帰省終了後に入る予定となった。それまでの間に、この居間を大掃除する。天井帚を使って天井の埃を払い、柱および6枚の板戸と10枚のガラス障子と3枚の障子戸をそれぞれ拭き掃除し、畳をすべて外した床の掃き掃除と拭き掃除を行った。床の掃除は、父と母と三人で行った。どこもかしこも、拭いても拭いても、雑巾はすぐに真っ黒になった。畳やその他の廃棄物は、軽トラックに積んで父とごみ処理場に持っていった。
後日、居間に新しい畳が入ると、母が写真を送ってくれた。その様子は、古民家ならではの、静かで大変趣のある雰囲気だった。母が選んだ梅の柄の畳縁は、品よく柔らかい雰囲気となってこの空間に調和をなしている。神棚も整然としている。母は「この居間で寝転んでテレビが見られるなんて、夢のようだよ」と言っていた。父も居間がきれいになって良かったと思ったようである。台所の一部と、一階にある二部屋だけで、およそ50年分の大片付け・大掃除となった。
季節は冬になり、迎えた伯父の四十九日の法要と納骨で再び帰省した。真新しい畳の居間には、こたつと石油ファンヒーターが設置されていた。この他には、テレビと木製の引き出し一つしか置かれておらず、広々とした空間が保たれている。この時の帰省は5日間とし、一階の祖母の寝室の前にある階段下の物置スペースにも着手することにした。ここには、複数の引き出しや鏡、櫛、裁縫道具等、祖母のモノが置かれている。よく見たことのない場所の一つだった。すべてではないが、もう使うことはないと考えられるものを処分するべく分別を始めた。
祖母はまだ生きているのに、と感じる方がおられるかもしれない。私にもその気持ちが全くなかった訳ではなく、多少遠慮気味に処分を進めたつもりだ。それでも、ある意味冷たく捨て始める私に対し、父は不愉快な様子だった。けれど、亡くなってからこの家にあるすべてのモノを着手するのでは、あまりにも遅い。母に限界が来ていることが分かるからだ。残念ながら、事の重大さや危機感が父には分からないらしい。その必要性を考えることなく、祖父母に刷り込まれたであろう「モノを捨てること」ただ一点に対して、憤っている。私は一歩も引かなかった。
2019年のお盆から始まった、この家の大片付け・大掃除は、これでもまだほんの一部で、徐々に取り組んでいくしかないように思われた。
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