実家のその後のあれこれ(5)

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雪国の春。実家の台所の床に広げられた新聞紙の上には、父が山で採ってきたぜんまいがこんもりと大きな山になっている。採ってきたらすぐに下処理をしないとダメになってしまうらしい大量のぜんまいを前に、予定外の作業に追われることとなった母は「採ってきて終わりじゃないんだ」と言って、心底ぼやいている。私に食べさせたいという父の思いもあったようだが、それに対する気持ちよりも、とにかくこれ以上母に負担を掛けさせないで欲しいという気持ちが上回る。どうして父はいつも、一緒に暮らす母の体調と体力に対してこうも鈍感なのだろうか。昭和中期の男と女は分業形式になっているのか、父は採った後の作業をしたことがないらしい。母はやかんに水を入れたかと思うと、突然、床のぜんまいに勢いよく掛け始めた。それはあまりにも唐突で、しかも床が濡れることなど全く気にしなくても良いような当たり前の様子で、ただ固まって驚いている間に「ここは古い農家の家なのだ」と、脳が後追いで情報処理している。その後追いついた意識が、とにかく後続の対応を手伝わなければならない、と言っていた。夜、八時半頃のことである。ぜんまいの綿と渦の先の葉を取り、茎は、ぽきっと簡単に折れるところで折って、柔らかいところだけを食用にする作業だ。山のようなぜんまいを前に、母に教えてもらいながら父と私も一本一本ぜんまいを手に取り、三人で黙々とひたすらこの作業を行った。ようやくすべてのぜんまいの綿を取り終えると、母はそれを大きな鍋で茹で始めた。ぜんまいの煮汁は赤い。そして、一階の廊下に敷かれたござの上にそのぜんまいを広げたのである。ここまでの作業を終えたのは、夜九時頃だった。本当は、もっと詳しく聞きながらやってみたいのだが、時間も時間、母も体力的にやっとのことで、とにかく早く作業を終わらせることが先決だった。実家では、何だかいつも色々なことに余裕がなく、思うようにいかないことが多い。

天日干しするござの上のぜんまいは、田舎の風物詩だ。母方の祖父母の家でも、春先は作業場の前に敷かれたござの上で、ぜんまいをよく天日干ししていた。丸く一まとめずつに置かれたぜんまいを、祖母が回すようにして揉んでいた光景を思い出す。実家の祖母もそうしていた気がする。実家では乾燥させたぜんまいをビニール袋に入れて吊るして保存しており、母はよく「ぜんまい煮」を作る。乾燥させることで保存が効くので、冬の間も食べることができるのだ。ぜんまいの綿取りを実際に行い、母が茹でてござに広げる作業を見たことにより、断片的で漠然としていたぜんまい煮ができるまでの流れが以前よりも具体的に分かるようになった。ぜんまいを茹でた母の手は、灰汁で焦げ茶色に染まっていた。当たり前のように度々食卓に上がるぜんまい煮は、それを水に浸して茹でて戻す作業を含め、一つひとつの工程において信じられない程の手間暇(時間と労力)が掛かっていることを、今更ながらも改めて実感するに至る。私はきっと、退職するという選択をしなければ、これを知る機会がなかったに違いない。

余談になるが、ぜんまい煮は母が作るお弁当にもよく入っていた。子どもだった当時は、茶色いぜんまい煮よりも、ミートボール・アルファベットのフライドポテト・ミニトマトのような、周りの彩りあるお弁当に惹かれていた。母に「冷凍食品入れて」とすら言ったことがある。ところが、三十代になって開催された中学校の同窓会で、意外な同級生が私のお弁当を覚えていてくれた。小学校も同じだったので、いつ頃のお弁当のことなのか、ぜんまい煮が入っていた日かどうかまでは分からないが、『うちは冷凍ばかりだったから、うらやましかった』と話してくれたのだ。思いもよらないその言葉にとても驚いたと同時に、長い時を経て母が認められたようで嬉かった。母にもそのことを伝えると、母もまたとても驚いていた。

さて、私は実家に帰省する度に家中をパトロールしている。これまでの大片付け・大掃除を通して空っぽにした部屋に、父がまた不要なモノを置き戻していないかどうか点検して回るのだ。それと同時に、各箇所どの程度の掃除が必要かをざっと確認しながら、頭の中で何となく滞在中の掃除スケジュールを描いていく。この度は、開かずの間だった二階の小部屋に、処分したと思っていた背の高い障子のデザインの間仕切りが畳んだ状態で戻されていた。この間仕切りは、確かに見た目はまだ新しい。以前、必要があって購入した後に、一、二度使ったものだそうだが、このまま保管していたところでこの先もう二度と使うことはない。早く空っぽにするべくこうして動いているというのに、どうしていつまでも処分せず放置しようとするのだろう。再びそれを抱えて階段を降り、一階の廊下に運び出した。更に、一階の祖母が使っていた部屋には、照明が戻されていた。昔ながらのぶら下がり式で四角い枠の、紐で引っ張るタイプの照明だ。あまりに何気なく元に戻されていたので、片付けたのは私の記憶違いだったかとも思ったが、脚立をそこまで運んでくる手間や、取り外して持った時の「意外と重い」という感覚は、以前にも確かに体感した。まるで同じ作業を二回行っていることになる。もう誰もこの部屋を使うことはないのに、どうして不要な照明をわざわざ元に戻すのか、意味が分からない。枯渇している体力で何度も労力を掛けざるを得ないことが腹立たしい。父に対しては、「この家は、この先のことを考えて空っぽにしておくのがベストだ」ということと、「空けた部屋には何も置くな」ということを強く言っておく。普通に話して伝わる人なら、母が四十年以上も苦労していないのである。そして場所に応じて、箒で掃いたり、掃除機を掛けたり、雑巾で拭いたり、、、これまでの大掃除に比べれば何てことない日常の掃除だと思えるものの、毎度のことながら、やってもやってもやることが多い。まるで、家に働かされているような感覚になる。それでも何とかこれができるのは、母が毎食の炊事の一切をしてくれているからだ。この間に、あらゆることを着々と進めていくしかない。

実家にある固定電話(ひかり電話)については、約一か月半前に契約内容を変更(最小化)していたが(『実家のその後のあれこれ(1)』参照)、やはり殆ど使うことがないため、結果として解約することとなった。たまに固定電話に掛けてくる地域の方や母の友人には、両親それぞれが持つ携帯電話やスマートフォンの方に掛けていただくよう伝えられた。再び契約者である父に代わり、娘である私が電話で解約の手続きを行った。本日をもって利用停止となること、今月分の基本使用料は日割りで請求されること、同じ電話番号は今後も利用不可となること等の説明を受けた。ガイダンスで新しい電話番号を案内することは不要とした。今後は『現在、使われておりません』というガイダンスが流れる形となる。念のため今後の連絡先を教えてほしいとのことだったので、契約者であった父の携帯電話の番号を伝えた。ひかり電話は翌日午前中に順次停止となり、遠隔でルータ機能を停止するとのことで、これによりインターネットの再設定が必要になる場合があるとの説明を受けたが、これはその時になってみないと分からない。ずっと気になっていたONUの管理は、電話会社のマークが入っているものの、インターネットの契約を行っているプロバイダが行っているとのことだった。とにもかくにも、ようやく固定電話を無くせることに母は喜んでいた。

翌日午後、ひかり電話の解約に伴うルータ機能の停止により、Wi-Fiが途切れた。”インターネットの再設定”を行う必要が生じたことになるが、この時はただ単純に各端末からWi-Fiの再接続をすれば良いものと思っていた。ところが、何故だかうまくいかない。スマートフォンどころか、有線LANに繋いだパソコンすらもインターネットに接続できない。夕方まで色々調べながら何とかしようと試みたものの、どうしてもインターネットを復旧することができなかった。翌日には実家を発つため、なんとこのような状況のまま、今回は時間切れとなってしまったのである。ようやく母が新しいスマートフォンとWi-Fi環境下で快適に動画鑑賞できるようになったと思った矢先、またもや「待って、待って」と、いつまでも不要な我慢させているようで、本当に申し訳なくなる。母は「電話ができれば大丈夫だし、Wi-Fiが使えなくてもインターネットは見れるし(YouTubeを見るのは、少し控えめにしてもらう)、今回も十分やってくれているのだから、あまり根詰めてやるな。倒れるぞ」と言ってくれたのだが、多少の不便が続く。申し訳なさを拭えないまま、十日間の滞在を終えて実家を後にしたのだった。

Yoshimi

夫と二人暮らしの40代主婦。
2019年の退職を機に取り組んだことや、深く感じたことをエッセイとして記録するとともに、そのほんの一欠片がどなたかにとって何かのヒントになればと思い、このブログを始めました。こんな物語もあるんだな、と読んでいただけたら嬉しいです。
趣味は、日向ぼっこ・クーピー画・たまに着物で美術館に出掛けることです♪(これらの背景については、追々記事にしていきたいと思っています^^)

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