2021年の初冬。平日の動物園は、社会科見学で来た何校もの小学生たちが明るい声を上げていた。
休憩エリアで休んでいると、3歳くらいの男の子が目に止まった。若い母親とその祖父母、ベビーカーに乗せられた妹の5人で来ているようだった。
その男の子は、お漏らしをしてしまったらしく、母親と祖母に何度もしつこく咎められている。濡れた衣服を着替えさせられている間も、母親は『最近ダメだ。この間は夜も大丈夫だったのに』と、本人を前に口にしていた。その様子を見ていると、私の中で忘れていた記憶が徐々に思い出された。
それは、保育園の年中クラスに通い始めた頃に経験した出来事だった。私は、保育園でお漏らしをしてしまったことがある。いつも付いているはずのトイレの電気がなぜかその時は消えていて暗かったのだ。怖くて行くに行けず、我慢が限界を迎えた結果だった。先生にあれこれ言われながら、弟の替えのパンツを履かされた。
お漏らししてはいけないことは十分に解っている。先生の言うことも解る。けれど、どうしてもそれが出来なかった。そもそもトイレが暗かったとき、どうすれば良いのか、その対処法が分からなかったのだ。もし今の私が当時の私に語りかけることができるなら、『先生に「トイレの電気をつけてください」って言えば、電気をつけてもらえるよ』と伝えるだろう。
動物園でお漏らしをしてしまったその男の子も、その子なりに何か『やむを得ない事情』があったのではないか。ふと、そう思った。そんなとき、果たしてそれは、その子の『落ち度』と言えるのだろうか。
多くのオトナは、自分の非になりそうなとき、自分が悪くならないように、都合よく言い訳したり、ごまかしたりする。でも、その子はそんなノウハウを知らず、またその技術を持たない。あっちへ行き、そっちへ行きしている間も、オトナ達のその執拗な言葉を、ただ一身に聞くことしかできないでいる。
そして傍にあるカフェで昼食を買うために、その男の子は母親と祖母とともに席を立った。その子が母親に言われて、三角の屋根をしたゴミ箱にごみを捨てたときだった。
『あ、何かおうちみたいね』
何気なく言った母親の言葉で、その子は自分の背丈よりもずっと大きなそのゴミ箱の形状に興味を持った。見上げて全貌を見始めた瞬間、すぐに『お・い・で!』と母親に繰り返されてしまった。更に祖母には『ママの言うこと聞いて!ほら、今ママ何て言ってる?』と、まくし立てられた。
昼食を買って席に戻ると、今度は除菌シートで拭くからやれ手を出せ、ほら写真を撮るぞと忙しい。祖父に至っては『じっとしていろ』なんて、土台無理なことを言っている。オトナ達の声掛けの内容は、そんなことばかりだった。
オトナ達が話しながら食べている間も、男の子は、落ちている木の枝を踏んでみたり、上方に止まった大きなカラスの気を引こうと、音を立てたりしている。やがて、拾った何かを小さなその手に握りしめ、祖母の前で『ほら、見て!』と、開いて見せた。ところが、祖母が片手間に返した言葉は『それ、ちゃんと後で放ってね。食べられないから』だった。
その瞬間、私はこの世界の何かを感じたようだった。
バカなのは、オトナだ。
食べられないのは、分かってる。
食べようと思って、拾ったんじゃない。
ただ、これをあなたに、見て欲しかっただけなのに。
その純粋な賢者に対する、あまりに的外れなオトナたちの言動は、心の中に説明し難い違和感を生みながらも、小さなその子の素直さによって、事なきを得ていく。
『今』 何かに忙しいのは、その子ではない。オトナだ。
『今』 早く昼食を買いに行きたいのは、その子ではない。オトナだ。
『今』 それを勝手に”不要なもの”と決めつけたのは、その子ではない。オトナだ。
『その子は、今』 全身で外の世界を感じている。
『その子は、今』 おうちのように三角の屋根をしたゴミ箱を、もっとよく見たいと思ったのに。
『その子は、今』 そこで拾った小さな落ち葉か何かを、あなたに見て欲しいと思ったのに。
幼いころの私の救いは母方の祖母だった。祖母のとにかく優しい「まなざし」だった。多くの言葉を交わさずとも、いつも心で通じ合っていた。だから祖母を思い出すときは、ただ温かい優しさを向けて、にっこりと微笑んでくれる、その様子だ。そしてそれが、私の心の一番深いところの、真ん中にある。
私には子どもがいないけれど、子どもたちが感じるその瞬間、瞬間に的を射ることができるのかもわからないけれど、
「その子」が『今』何を感じているのか、共に感じてみてあげられるだろうか。
「その子」を無条件に信頼して、温かいまなざしを向けられる、そんなオトナの一人でいられるだろうか。
男の子は、時折り聞こえる動物の声をまねして走り回りながら、『おしっこ出る』と言って、今度は母親と一緒にトイレに向かっていった。
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