冬を越し三月になると、また大きなスーツケースを引いて出発した。近隣に咲く、こぶしの花や沈丁花(ジンチョウゲ)が春を告げている。こぶしを知ったのは、退職してからのことだ。駅からの帰り道で信号待ちをしていたある日のこと、頭上に広がるネコヤナギのような蕾を見て「これは何て言う木だろう」と見上げていると、「これ、何の木か分かる?」と手をグーにして”拳”を示してくれた、通りすがりのおじいさんがいた。とっさのことで「?」と分からずにいると、「こぶし」と言って教えてくれた。「…あぁ!」と分かってお礼を言うも、そのおじいさんはもう歩き始めていて後ろ姿だった。その握りこぶしはやがて開き、白い花となって徐々に空に広がった。雪国の野山で春を前に一番初めに咲くこぶしの花を、母が特に好んでいるということも、その後知ったのだった。また近所のある場所を通ると季節によってとてもいい香りがするその花が『沈丁花』という名前であることもまた、退職してからようやく調べて初めて知るに至った。何でもないようでいて、とても重要なことを、この空白のような期間の中で後追いながら知っていく。春の甘い香りを束の間味わってから、新幹線や在来線を乗り継ぎ、半分季節が遅い実家へと向かった。
道路の端には、当たり前の光景として高さ1メートル以上の雪がまだ残っている。大片付け・大掃除の峠を越えた実家は、とても古いことに変わりはないが、中に入れば現在を生きる人だけが住む家となっている。これまでに片付けたあらゆる場所に視線を向けるにつけ、そこに至るまでの劇的な過程と掛かった労力が頭の中で映像化され『やっとここまでできた…』と、何度も、何度も、口を衝いて出てくる。ようやく両親の生活に関するモノや事に着手できる段階になったことが感慨深い。しかし取り組むべきことはまだまだあると同時に、引き続き急がなければならないという感覚がある。2022年に入っても尚、あらゆることにおける「やっと」の積み重ねの途中なのである。
今回の主目的を短歌で表すと、以下のようになる。
『築百年 古家に住まう 母の手に 現代のスマホ 流るる演歌』
これを最適な形にしていきたいのだが、母は常々「料金が高い」と漏らしている。これは実家にWi-Fiがないことと(インターネットの契約はある)、契約先が大手キャリアであることに起因している。YouTubeの試聴を楽しむため、どうしても通信費が高くなってしまうのだ。父は二つ折りの従来型携帯電話を使用しており、普段インターネットを見ることは殆どない。必要時のみ有線LANを接続してパソコンを使用するくらいだ。今回の移動日を含めた四日間の滞在中に、Wi-Fiの導入と母のスマートフォンを格安SIMに切り替えるための「下準備」を進めていく。このために家電量販店から事前にホームルータを購入してきたのだ。すぐに設定したいところだが、まずは良く分からない実家の通信環境を把握しておく必要がある。回線事業者・プロバイダとその契約内容を確認していくことにした。
回線事業者からの請求内容のはがきを見ると、その内容は固定電話からの流れで使用しているひかり電話だった。使用することが少なくなった割には高いと思い詳細を確認すると、色々なオプションが含まれたプランになっている。母に確認すると必要なのはナンバー・ディスプレイだけのため、基本プランにこのオプションを付けるだけに変更した方が良さそうだ(この当時で、月二千円安くなる)。以前には無言電話が掛かってきたこともあり、母は固定電話を解約したいと言っているが、この短期間でそこまでの対応は取れないため(インターネットとWi-Fiへの影響を考慮した)、父にも確認した上で今回は契約内容の変更に留めておくことにした。契約者である父に代わってはがきに書かれている窓口に電話をすると、娘であることを確認された後に希望する内容へ変更してもらうことができた。
次にプロバイダの契約内容を確認していく。契約時の冊子を見ると、マイページにログインする際のユーザーIDとパスワードの他、プロバイダのメールアドレス等の記載がされている。所々に手書きでメモも書き込まれているが、両親は殆ど全くと言っていい程インターネットの知識がないため、一度もログインしたことはない。両親に代わってログインして契約の詳細を確認すると、仮に解約する場合は特定の月以外は解約金が発生するということが分かった。戸建ての月額料金としては妥当だが、両親にも説明の上、今後の参考として把握しておく。
実家の有線LANが接続されているONUが回線事業者とプロバイダ、どちらから借りているものなのかは分からないものの、現状の通信環境と契約内容が確認できたところで、いよいよWi-Fiのホームルータを設定する。説明書を参照しながら進め、まずは私のスマートフォンにWi-Fi接続できたことが確認できると、実家のパソコンと私のパソコンにもWi-Fi接続の設定を行った。どういう訳かパソコンの方はすんなりとはいかず、接続されるまで時間が掛かった記憶がある。そして主目的である母のスマートフォンだ。機種が古かったためかこれにも時間が掛かったが、最終的にはWi-Fi接続することができた。但し、それで終わりにしてはならない。今回設置した黒いホームルータがWi-Fiの装置であることと、スマートフォンのどこの表示を見れば家のWi-Fiに接続されていることが分かるのか、外出時との違いを含めて説明した。母が大よそのことを理解しておく必要があるからだ。しかし実際には、その時になってみないと本人としてもピンと来ないことが多いということが分かってきた。しばらく経ってから請求金額を聞くと、想定していたよりも安くなっていないことから、スマートフォンを確認するように伝えるとWi-Fi接続できていないこともあった。何故だか分からないが、外から帰宅するとどうもうまくWi-Fi接続されないことがある様子だったり、掃除機がホームルータに当たったらしくACアダプタの線が抜けかけていた時もあった。「Wi-Fiが繋がっていない時」のチェック方法や対処法が分からない母に対して、電話越しに都度あれこれ確認するよう伝えるのは、なかなかに面倒で歯がゆい。これまでの長い生活における「当たり前」が違うから、分からなくても仕方がないのだが、そう思えるようになるまでにも随分掛かったように思う。父には、パソコンにLANケーブルを接続しなくても、無線でインターネットに繋がるようになったことを説明した。
ホームルータが接続できたら、次はウィルス対策等のセキュリティソフトを導入する。いずれ父もスマートフォンにすることを想定して、端末三台用のものを手配し、実家のパソコンと母のスマートフォンにアプリをインストールし設定した。インターネット関連の保管書類は、チャックの付いたメッシュケースにすべて纏めて入れておく。
ここまでできたら、母のスマートフォンのキャリアを格安SIMに切り替えるための下準備に取り掛かる。先ずは将来的なことも見据えて、母の生活におけるクレジットカード等のインフラを新たに整備・構築する必要がある。格安SIMサービスの契約には、契約者本人名義のクレジットカードが必要だが、母が持つクレジットカードは地元銀行のもので、殆ど使用していない銀行口座と併せて解約したがっていたのだ。どのような形になるかは分からないが、この古家にはもうそう長くはいないだろうことや、今後ネットショッピングを覚えて利用していくこと等を踏まえると、私と同じネット銀行の口座とクレジットカードを持っておくのが良いという結論に達した。全国どこにいても同じように利用できるし、私自身が同じものを使用していることで何かあれば調べて伝えることもでき、サポートがしやすい。自分の身辺整理で行ってきたインフラ整備を、今度は母に横展開していく。この過程で、そもそも母はクレジットカードがどういうものなのか、何とよく分かっていないことが判明したため、その説明も行った。これもまた生活基盤やそのスタイルが自分とはまるで異なることで、思いのほか「当たり前」の理解度が違うことの一つだった。今回の帰省でできることは、母のクレジットカードとネット銀行の口座開設の申し込みに関するサポートまでである。
実家および母のインフラ整備を進める一方で、物理的にも身軽にしていく必要がある。食器棚にある食器類を母に確認しながら整理していくことにした。「これはもういいにしようかな」と言ったものを処分するべく外に出して掃除していく。度々気になっていた『ブレーメンの音楽隊』を思わせる絵柄の小皿(数枚ある)は、使うことはないのにまだ残しておきたいという。「使わないのだから捨てればいいのに」と、人のモノに対しては容赦なく簡単に思えてしまう私がいるが、母としては可愛らしいその絵柄を見るとほっとするのだそうで、お皿として使うというよりは見るために、まだ残しておきたいとのことだった。そして、自分がもういいかなと思えたら処分するから待って欲しいとも言っていた。「分かった」と、母の前では渋々感を出した私も、本当はその気持ちが良く分かる。いずれ自分で終わりにする心積もりがあることも分かった。私は遠方の実家に通いながらであまり余裕のない片付けをしているが、気持ちも時間(効率性)も大事にできたら良いと思う。
結果として、一部ではあるが食器棚の整理は前進した。減らした食器の分、窮屈だった引き出しの中は以前よりも見やすく、出し入れがしやすくなった。そして軽くなった分、引き出しの開け閉めも楽になった。その様子を母に確認してもらうと、早速その快適さを実感したようである。しばらく後になって「もったいない気がして、どうしても後ろ髪引かれるようだけど、やっぱり捨てないとダメなんだね。やっとそれが分かった」と、しみじみ言っていた。
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