大正12年築(約築100年)、木造2階建て、9DK。
豪雪地帯の田舎にある、とある古民家が私の実家だ。至るところが改築されている。祖父が二歳のときに建ったこの家は、祖父母にとって、たいそう自慢の家だったらしい。
「祖父母の家」という感覚のこの家には、私が二歳のときまで住んだ。両親が戻ったのは、それから二十数年が経ち、祖父母が高齢になってきたためだった。更に時が経ち、私が退職した時点で、祖父は既に亡くなっており、祖母はショートステイを利用するようになっていた。
祖父母は、その世代の中でも、極めてモノを捨てない人たちだったと思う。形あるものを「捨てる」(つまり、「処分する」あるいは「始末する」)という考えや選択肢を、そもそも持っていなかったと思われる。欲しいものは買うが、極度のもったいながりだった。電気がもったいない、ストーブに使う石油がもったいない、水がもったいない。乳児だった私が飲み残したミルクでさえも捨てるのを嫌がったそうで、「子どもを育てられるような家ではなかった」と、母はよく口にする。
この家は、何もかもが何十年と変わらず、ここだけ時が止まっていて、まるで昭和初期から空気ごと真空パックされているかのような異空間だった。日中、祖父母が過ごしていた薄暗い居間も、戸棚も、額に入れて飾られているモノも、階段の下に掛けられた古い鏡も、目に見えるありとあらゆるモノの全てが、埃を被って色あせており、雑然としている。いい加減に見飽きてしまった、を通り越して、もはや気が滅入る。
2019年、退職して初めて迎えたお盆に、私は一人で8日間帰省した。両親は農作業で忙しくしている。家の中は相変わらずでも、元々祖父母のモノはアンタッチャブルだ。父はその環境に慣れていて違和感を持っていない一方で、母は勝手に捨てることもできず、うんざりしている。私がこれまで腰を据えて取り組めなかった課題がここにある。在職中は、年に二回、多くても三回、帰省するのがせいぜいで、それもひたすら休みに帰るという具合だった。今もやっとではあるが、「休み明けの仕事を念頭に体力を温存する必要」は、もうない。
『退職した今しかない。今、どうしてもやらなければならない』
予定外のことだったが、突き動かされるように、この家の大片付けを決意した。
まずは、脱衣所。窓際の物置スペースには、昔から新聞紙が敷かれている。祖父母が日光で家が焼けるのを嫌ったためだ。ここには、私の洗面用具だって気持ち良く置きたいのに!脱衣所の窓際に限らず、この家はとても広い割に場所がない。用をなさないどうでもいいものが清潔感なく幅を利かせて、大切なものが我慢をして窮屈な暮らしを強いられている。この家のあり方や抱える難しさが至る所に横たわる。祖母が96歳と高齢になった今、すでに両親が高齢者の域に入っている。これまでと同じにしていてはいけない。
何十年もの何かを穿つように、思い切りこの新聞紙を取り払った。そして脚立に乗り、天井、壁、洗面台の上など、蜘蛛の巣や埃がついた脱衣所全体の掃除をした。私の滞在中は、まず私が気持ち良く過ごせるようにしたい。そして祖母や父だけでなく、普段この家に暮らす母も気持ち良く過ごせるようにしたい。家の中の「脱衣所」というたった一か所だけでも、明らかにもう使わないであろうモノを処分し、上から下まで掃除するには時間と労力を要したが、窓際に必要なモノを置けるようになった状態は、何よりも脳に大きな変革をもたらした。祖母には、「火事になると燃え広がって危ないから、新聞紙は片付けたよ」と話した。
祖母は、何かを変えることをとても嫌う。機嫌を悪くした場合、私が戻った後に、その矛先が母に向きかねない。父は仲裁することをしない。なので、できるだけ祖母がショートステイで不在の間に、続きは目につきにくい場所から取り組むことにした。
それが、二階の居間だ。部屋としては使っておらず、母の部屋の手前に空間として存在しているような場所だ。もちろん、雑然としている。昔の叔父の賞状が未だに飾られていたりもする。ここでも脚立に乗り、この額類をすべて取り外した。蜘蛛の巣や埃を払い、古びて硬くなった額縁の爪を何とか外して中のモノを取り出す。表面のガラス板は新聞紙に包み、額縁は木製と金属製とで分けて、ゴミの分別を行う。額縁一つだけでも、解体して処分するまでの工程が長い。ガラス板も地味に重く、単純だが大変な作業だった。
そして祖母の観音開きの箪笥。祖母は、基本的に一階で過ごしており、この箪笥は使用していない。中には数枚の衣類がハンガーに掛けられていた。母に確認し、念のため残した衣類があったかもしれないが、基本的には処分した。空にした箪笥も処分するべく、何とか一人で一階に運んだ。(その後、粗大ゴミとしてごみ処理場に持ち込むまでの間は、作業場に置いておくべく、父に持って行ってもらった。)最後にこの部屋全体の掃除機掛けを行い、簡単に整えた。
当たり前のように目線に入る額類が取り外され、高さも大きさもある観音開きの箪笥がなくなると、その部屋の景色は随分と変わった。「見飽きた不要なモノ」が目に入らなくなったからだ。脳がとても楽になった。それは、母にとっても同様だった。母の部屋と一階を行き来する度に必ず通るその部屋で、目に入る情報が変わることは、とても大きな意味がある。
“空気ごと真空パックされているかのような異空間”に、確実に風穴が開いた。その日の夜、それを示すかのように地域の花火が上がった。祖父・父・弟と、見に行った記憶もあるその花火は、大片付けをしたこの二階の部屋の窓から、良く見えた。ふと、寝転んで見てみたりもした。この部屋で寝転んでみるなんて試みは、これまで一度も、そして微塵も、思いついたことさえもないことだった。
普段の家に戻ると、実家での疲れがどっと出て、一週間は動くことができなかった。
実家の大片付け・大掃除は、これを皮切りに、断続的且つ怒涛のごとく始まっていった。
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